「就職フェア」

 昨日、埼玉県社協が主催する就職フェアに参加してきました。

 日曜日の午後の部ということもあってか、さほど参加者が多いとは感じませんでしたが、僕達のブースには2hで4名の方が話を聴きに来て下さいました。

 4名の方々は、経験者、未経験者、無資格者などそれぞれでしたが、この業界で働く意思を強く持っていらっしゃいました。

 そんな就職フェアの面談の中で僕達から話す事は、業務内容や賃金形態も勿論ですが何よりも、施設が「目指している方向性について」を重点的に伝えさせて頂きました。

 僕達が毎日お風呂に入っている事を周りの方に伝えても、「凄いね」とは言われない。しかし、特別養護老人ホームに入所している高齢者が毎日お風呂に入れる。と知ると「凄いですね」と言われてしまう。

これが、現状の高齢者施設での暮らしと、僕達の暮らしの違いです。このような僕達からしてみたら「当たり前」と言われる暮らしに、如何にして高齢者の暮らしを近づけるか。

 しかし毎日お風呂に入れて、食べたい物を獲得し、好きな時間に起床し、就寝するような暮らしは、高齢者施設の中では非現実的とも思われがちです。

全ての入所高齢者へとなると、今の人員体制では難しくとも、1人だけなら叶えられるかも知れない。全ての方は難しくとも、オムツ内に排便があった方だけなら叶えられるかも知れない。全ての方には応じられなくとも○○○ならば・・・。

 僕達の目指すことは、極論からイメージを膨らませ、そこに向かって近づけられる事がないか?もっと出来る事がないか?他の方法がないか?を日々追求し実践から1つずつ近づけていくこと。

 そんな話をしていると、ついつい目指すべき「正論」ばかりが主張されてしまうのですが、何より大切な事は、それを実践していく仲間(チーム)をつくっていくか!

 就職フェアに参加された方々がどの位、こうした話しに共感をしてくれたかは解りませんが、適当に甘い言葉“だけ”を並べて、誘惑で入社を勧めるよりも、共に目指す「仲間(チーム)」一員として迎え入れていきたいからこそ、伝える責任をもって話しました。

4名中、2名の方が施設見学を希望して下さり、1名の方が面接を希望して下さいました。同じ想いを持てるか、持てないかではなく、施設の想いに耳を傾けてくれた4名の方にまず心より感謝したいと思います。見学・面接、お待ちしておりますね。

施設長 八幡 雅冬

「初めの一歩」

 先日、小4の娘が学校で高齢者擬似体験(うらしま太郎体験)をおこなってきました。

  目には白内障による色覚変化、ぼやけて見える状態や視野の狭さを再現するための特殊眼鏡をつけ、足や手首には関節が動きにくくなる状態を再現する重りをつけ、高い音が聞こえにくくなる耳栓をつけ、人差し指と中指、薬指と小指を2本一緒にテープで固定し、物がつかみにくく落としやすい状態にして準備はOK。

  杖を持って校内をぐるぐる歩いたり、お店を想定して物の受渡しを行ったり、いつもの通り給食を食べたそうです。

  普段歩きなれている階段が、手すりがないと登れない、階段のはずなのに坂のように見えて怖くて降りられない、足が上がらずちょっとした段差につまづいてしまうということにとても驚いていました。

 お店では、店員さんの言っている言葉が聞き取れず、値札も見えず、また硬貨が識別できずに100円と1円を間違えてしまい、しかもせっかく買ったペットボトルのお茶も開けることができなかったと言っていました。

 そして給食の時間では、箸で食べ物がつかめないだけではなく、手首の重りに耐え切れず食器を落としてしまう子が続出で大騒ぎだったそうです。
 帰ってきた娘はとても疲れきっており、「おじいちゃんやおばあちゃんは毎日こうなんだよね。大変だよね。出来ていたことが出来なくなるって悲しいよね。」と言うので、おじいちゃん、おばあちゃんにこれからどうしたい?と聞くと、「困っていることがないか気にして、手伝ってあげる。」と言ってました。

 小学校ではこの後、5年生で車椅子体験、6年生で施設のボランティア体験を行います。

 なごみの郷でも、毎年地域の小学生がふれあい体験、また中学生が社会体験3daysチャレンジとして社会体験に訪れます。

  ほんの少しですが、こういう体験を通じて介護職を目指す子も毎年います。

  そして、夢を実現させ介護職としてスタートします。

  どんな職種でも仕事を通じて、様々な「想い」との葛藤はあるかも知れませんが、娘が感じたような、初めの一歩の気持ちを忘れずに、更なる夢への実現に向かって欲しいと願っております。

冨山 彰子

 

「接遇」と「自立支援」

  最近、さまざまな企業や団体が「接遇」と呼ばれる、接客業務時における接客スキルの教育に力をいれていますが、僕達の仕事にとって必要な「接遇」とはなんだろうか?

 企業や団体にとってのクレームの7割は人的によるクレーム。すなわち接客時における何らかの不作法が原因であり、素晴らしい商品やおいしい食事が提供されたとあっても、それらは大きな損失を招きかねないといわれています。

そのような要因が「接遇」のブームに火をつけているのかも。

 そんなことを振り返り考えていると、こんな事が頭に浮かびました。

 「これって、利用者さんがここを気にいらへんかったら来んでもええってコト?」(大阪弁(笑))

  私たちのケア技術や接し方がもしその利用者さんに受け入れてもらえなかったら、ここに来ない。辞めてしまう。というコトが考えられ、本来介護保険の基本方針で求められている、「本人の状態の維持・改善」や「家族の負担軽減」といった僕達の役割は果たせないし、利用者本位ともかけ離れてしまう。

 デイサービスを利用継続することで利用者さんの在宅生活が継続出来るように支援するには、入口である「接遇」の技術も必要だというコトを意識するようになりました。

 接遇とは、五輪招致でも有名になりました「お・も・て・な・し」のコトです。

「おもてなし」と聞くと、何でもかんでも利用者さんの為に尽くせばいいと考えてしまい、結果その方の出来ることまで奪ってしまうということが想像できますが、そうではありません。

 飲食店でウエイターが水やおしぼりを持ってくるのがサービス。おしぼりを渡す際に「お仕事お疲れ様です」と一言かけて渡すのが「おもてなし」です。すなわち想定内のことは「サービス」で、想定していない、人を気遣った言動や行動が「おもてなし」。だとすると、そんな言動や行動がどの位出来ているだろうか。

些細な一言なのですが、この瞬間に言われた側はとても感動し、一瞬にして心を開くのでしょう。「おもてなし」⇒「ココロの交流」が接遇のゴールでもあるわけです。

 私たち介護職が「おもてなし」を実践することにより、利用者さんが「ココロを開いてくれる」それが「ココロの交流」となり、最終的にはお互いに大きな信頼関係が構築され、自立支援の実践が出来るのだと考えます。

つまり「自分のことは自分で出来るように」という「自立支援」とは、決して「させる」ことではなく、接遇の延長線上に本人が「したくなる」「望む」という主体が生まれていることが大切なことなのでは。

 「楽しみにしてもらう」「楽しんでいただく」「笑顔で帰っていただく」=「喜」「嬉」ということには、受動的なものではなく、本人が「なごみの郷デイサービス」だからこそ「叶う」、「なごみの郷デイサービスの専門職員」だから「求めたくなる」、そんな関わりを築き、応援していきたい。

 これらを実現するためにも、一人ひとりの望んでらっしゃること、不満に思ってらっしゃること、満足してらっしゃることを日々のケアから見極め、会話し、心の声に気づける専門職の集団を目指している今日このごろ。

 松久晋也

ショートステイ利用者さんとの外出

 先日越谷なごみの郷のショートステイ利用者さんと職員で、川口グリーンセンターへ1日外出をしてきました。

 初夏でありながら日差しがたっぷりな暑い1日。

皆さん夏着でちょっぴりおしゃれをし、しっかり帽子をかぶった装いでいざバスへ乗り込み、たくさんの職員に見送られ、出かけていく利用者さんたちの笑顔はとっても素敵でした。グリーンセンターに着くとたくさんの自然に囲まれながらセンター内散策をし、おいしいお弁当をほおばり、利用者さんからは「楽しい。」「また来たい。」「次はどこに連れて行ってくれるの?」などうれしいお言葉を沢山いただきました。

 普段在宅生活を送っている利用者さんはなかなか遠出をする機会が少なくなってしまうのが現状で、連れて行きたくても仕事があってなかなか…とご家族の方々からよく伺います。でも利用者さんだって時々おしゃれをしてお出かけしたいですよね。

そんな利用者さんやご家族の思いをなごみの郷のショートステイは出来る限り応援し、「どこに連れて行ってくれるの?」という楽しみと同時に、「どこどこへ行きたいわ!」という利用者主体の喜びを目指しています。そこには私たち職員の利用者さんの素敵な笑顔と、自ら願うことが叶う喜びをたくさん届けたい!という思いでもあるからです。

 皆さん、次はどこに行きましょうか?

 沢山いい思い出作りましょうね(^-^)

中山 奈美

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「昭和」と「平成」

今年新卒で入社した職員は、平成3年生まれ(大卒)から平成7年生まれ(高卒)・・・。

 昭和の半ば生まれの私は、この新卒達の親より10歳以上年上になる・・・。

 私たちの目の前にいる高齢者は大正~昭和初期生まれの80代・・・。

 この若者たちが、70年も前に生まれた高齢者を支援・介護していくということには、時にジェネレーションギャップを感じさせることも起きることがある。

 (シーン1)入居者が熱をだした。

 平成生まれの介護職員→水枕の指示を出されたが、水枕の作り方が分からなかった。それは、先輩職員が手取り足とり教えるけれど、使い終わった氷枕を片づけてくれたと思いきや、翌日、冷凍庫の中からカチコチに凍った水枕が出てきてびっくり!

 確かに、平成生まれは「アイスノン」という冷凍庫で凍らせて使う物しか知らないのである。

 (シーン2) ショートステイの利用者が、「雨が降ってきたけど、「こうもり」を忘れて来ちゃったよ」

 平成生まれの介護職員→「○○さん、コウモリ飼っているんですか?」 

「こうもり」と「コウモリ」・・・傘なんですけど・・・(笑)

 (シーン3)介護記録にまつわる話

 介護職員はケア状況を記録に残すことが求められるが、その記録を読んでいると時に誤字を発見した。

 「AM2:00ラウンドすると良く眠られているが発汁+更衣交換す」

 →発汁はもしかして発汗の間違い?!(笑)

現代では、パソコンやメールの文化となって圧倒的に「字」を書くことが少なくなったことによるものかも知れません。

私と新卒職員、30年~40年の違いで、これだけ習慣や暮らしに違いが出ているということは、高齢者からしてみたら30年以上の年の差がある私自身の行動にも、おかしな事が起こり得ているかも知れない。

人の振り見て、我がふり直せ!何はともあれ、仕事は楽しく笑顔でがモットーのなごみの郷です(^^♪

橋本 かおり

「関係性」~ささやかな日常~

 日頃当たり前に交わされていた入居者Aさんとの挨拶の言葉に疑問を感じた。

 以前までは(いつ頃までだったかさだかではないが…)、「おはようございます」と交わしていた挨拶が、いつの間にか「グッドモーニング」にかわっていたからだ。

 これは、職員から発されるようになったのではなく、知らず知らずの間に入居者Aさんから発されるようになっていたのですが、「知らず知らずの間」というのは、僕達の仕事に対する怠慢かも知れない。だって「おはようございます」から「グッドモーニング」というのは、誰がどう聞いても明らかな入居者Aさんの変化であるのに、いつからかなのかは僕自身、不明確な認識であったからだ。

 よく新人職員が入社したときには「おはようございます」だった挨拶が、半年くらい経つと「おはよう」となっていることがある。このとき、「どうして?」と尋ねると多くは、「関係性が築けてきたので」と言うが、一体誰が、何をもって「関係性を築けた」かを確認すると、自分の主観でその関係性に根拠はないことがある。つまり、入居者が「あんたとは関係性が築けたから挨拶は「おはよう」にしよう」と言われた訳では無いということである。

 また介護保険法の「尊厳の保持」と標された文言を追求していくと、僕達から発される「おはよう」はいかがなものだろうかとも思う。例えば学生時代にお世話になった恩師と、卒業後の交流を通じて関係性が深まったとしても、僕らはその恩師への挨拶に「おはよう」とは言わないのに、高齢者への「おはよう」は…。

 そんなことを考えながらも、このAさんの言動について色々考え、調べてみると、どの職員に対しても「グッドモーニング」ではなく、他フロアの職員など馴染みの薄い職員の方には今でも「おはようございます」であることがわかった。

 特にAさんに特別なことをしてきた訳ではないが、毎日顔を合わせて、挨拶を交わし、天気のことやら何気ない会話の中でAさん自身がそんな当たり前のささやかな日常から、日々接する職員との関わりに「グッドモーニング」という言葉を用いて、より良い関係を構築しようとしているのかも知れないと感じるようにもなった。そうした時間は僕達にとっては、特別なこととして捉えていなかった事も、入居者にとっては大切な大切な一場面であり、それを感じているからこそ馴染み深い職員へは「グッドモーニング」と明るく関わりを創り出してくれているのかも知れない。

 僕達からみたときのごく当たり前の関わりは、そんな一場面をどこまで重要視しして関わってきただろうか。入居者Aさんの「グッドモーニング」の挨拶に、僕達はどう応じていくべきかは、未だ葛藤中ではあるが、専門職としてそんな些細な日常や、些細な言葉を追求していきたい。

 本来、僕達が入居者の方々に元気を提供しなくてはならないのですが、毎朝この入居者Aさんの「グッドモーニング」の挨拶に、元気を頂いていることに感謝します。ありがとう御座います。

村上 晃史

 

「記録」

今年度は「基本」に立ち返るという施設全体の目標のもとデイサービスでも色々と自分達の仕事について考えてみました。

 

利用者の尊厳っていうけど、一体なにを、どう応じている事が「尊厳」なのだろうか?入浴の場面での尊厳は?排泄の場面での尊厳は?

自立支援という名のもとに、自分で出来ることを押しつけていないだろうか?

なぜ、いま自分がフロアのその位置にいるのか?と尋ねられたら、そこに意味をもってこたえられるだろうか?

認知症だからというだけで、本人の意思に関係なく対等の関係で会話をしていないだろうか?

利用者が困っている事ではなく、自分達が困ることをカンファレンスの題材にしていないだろうか?

食事介助、車椅子介助、歩行介助、基本に振り返った時、どうだろうか?

 

そんなことを1つずつ今年度は振り返り、無意識に薄まっていることを取り戻していくのですが、そんな中デイサービスでの記録の在り方について疑問が出て来た。

基本的に記録は事実をもとに記載がされていくはずなのに、介護日誌には、「楽しそうにしていた」という介護者の主観が記入されていることがあり、私も記録した覚えがある。楽しかったか、そうでなかったかは本人にしか解らないこと。本人が「楽しかったと話していた」ならわかるが、「楽しそうにしていた」は介護者の日記に過ぎず、記録には不要なことだと思う。

記録は利用者の日々の様子や普段と変わった状況が「いつからどんな状態であったのか」といった事実が重要な情報となるものであり、それは求められているから記録をするのではなく、「何よりも自分達の仕事として必要な情報となるから記録に残しているのでは」と考えるようになった。

 

そんな追求をしていたら、新人職員さんが「なぜ記録が必要なのか初めてわかりました」と話してくれた。実は新人・ベテランに関係なく、意外にも「どうして記録が必要なのか?」って考えてみる機会がなかったように思う。

 

また記録の必要性を追求してみたら、利用者を観る視点が自分自身でも変わった気がする。それは、記録を求められているからではなく、小さな変化を見落とさず、記録に残していくことの蓄積と、その記録を活かせる状態にすることが一歩先行く利用者への応じる手立てとなると思えるから。

そんな専門職としての力も今年度は伸ばしていきたい!

佐藤 麻理子

「看取り」

 100歳を超えるOさんは現在「看取り介護」を継続中です。看取り介護を開始してから4カ月が経とうとしていますが、現在は食事も良く食べ、自分の意思もハッキリ伝えられ、元気に話す姿を見ていると、看取り介護中であること、100歳を超える年齢であることを忘れそうになることもあります。

 そんな最中、「入院中のSさんが今朝亡くなりました」と訃報を聞き、驚きとともに、その事を職員に伝えると、皆一様にショックと哀しみを感じてました。それは入院前のSさんの元気な姿があったからでもあると思う。

 看取り介護には、終末期の介護について、「尊厳に十分配慮しながら、その人らしく生活できるように日々の暮らしを営めるようにケアを行う」ということが、ある程度明確になっており、より意識的にそれが取り組まれる。

 しかしケアに関する考え方は、看取りの方であろうと、そうでない方でも同じ環境下にあり、今回のように、いつ亡くなるとも分からない点では、全ての方に対して、より意識的な対応を図るべきであり、終末期と呼ばれる時期であると認識する方が自然なのかもしれない。

 看取り介護は、入居者・家族にとって大切な選択肢の一つであることは間違いなく、それを提供できるように挑む施設と職員を誇りに思う。そしてそこには携わる全ての方の協力がなくては出来ないことという意味では特別なことではあるけれども、その一方でも、施設で暮らす全ての高齢者のケアも同様に意識していかなくてはいけない。

 そんな当たり前のことを、Sさんのお通夜に参列した帰りに考えさせられ、施設の中にいる事で薄れてしまっている「普通」の感覚の大切さをみんなと考えていきたい。

 閏間 順哉

untitled施設の庭に生えてきた筍

忘れごと

 

今日、2Fにあるデイサービスの高齢者が職員と共に1F事務所の電話を借りにきました。高齢者は少し険しい表情にも見え、また困っているようにも見えた。

 

職員は電話の使い方を説明し、本人は受話器をとり自宅にダイヤルを回し、電話が繋がる。

 

その話の内容から、本人が電話をしていた理由がわかった。どうやら戸棚にしまっておいたお菓子を忘れたことを伝えたかったようだ。用件を伝えると本人は安心したようで「はぁ~良かったわぁ」と表情が和らぎ電話をおき、2Fのデイサービスに戻っていった。

 

なんてことない風景にも見えるが、本人が不安に思っている忘れごとを職員が真摯に受け止め応じている姿が何だか嬉しかった。

 

今、家には誰もいないから。電話が壊れているから。こちらで伝えておくので。といったように、本人の不安に共感を見せかけて、ごまかそうとするのではなく、本人が不安と思う事に同じ目線で物事を考えて上げられるからこそ、出来た考動だと思う。

 

もちろん、家族の事情などにより、必ずしも電話を繋げたことが手立てとして正しいかどうかは解らない。他にも専門職だからこそ応じられる事があるかも知れない。しかし、そんな追求をしていく大前提には、「自分達が困らぬように」ではなく、「本人の困っている事に支えとなりたい」という姿が大切なんでしょうね。

施設長 八幡 雅冬

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新たなる仲間との育み

はじめまして、施設長の八幡です。このたび、ホームページが新しくなりました。以前から、「ホームページを楽しみにしている」という声もあり、そんな期待に応えまして、ブログページを設けることにしました。このブログでは、奮闘する職員の姿や、制度に阻まれる葛藤、そして高齢者の活きて生きる素敵な姿など、「越谷なごみの郷」の日常を伝えていけたらと思います。どうぞ、宜しくお願い致します。

【新たなる仲間との育み】

 ホームページも新設されましたが、同じく4月1日より平成26年度新卒職員9名が仲間となりました。

先日まで学生だった新卒職員達は、将来への夢に満ちた希望と職業人(社会人)としての第一歩に不安を抱きながらも、今日までを元気ハツラツに過ごしています。

 そんな新卒職員達にはまず、世の中に数ある職種の中から、介護業界を選択し、歩みはじめてくれたことを心から感謝します。

  さて、どの法人でもこの時期には、新卒研修を取り入れている事かと思いますが、エンゼル福祉会越谷なごみの郷では「育て・育み合う」ことを研修のテーマとして取り入れています。

これは研修のカリキュラムではなく、研修を行う側の姿勢を追求し高めること。

「育てる」と聞くと、育てる側が上の立場にあり、育てられる側が下の立場であるように捉えがちですが、子供を育てるときに、「育ててあげている」とは考えづらいものです。また植物を育てるときにも、そこに上下の意識は持ちません。

つまり、「育ててあげてる」とは思わないでしょうし、「育てる」ことへの「やらされ感」ではなく、将来に向かっての「期待感」や関わることへの「義務感」を高め、前進させていくものだと思うのです。

 また子供や植物を育てるときには、「育てる側」も教え導きながら、自らも学ぶことがあったり、初心に帰ることが出来たりと気付けることも沢山あるものです。こうしたことにも意識を向けると、学べたことは「あなたがいたおかげで」という、関われた事へ、また関わった相手に対して感謝の念が生まれるものです。

  研修は将来への投資です。教える側も教わる側も、将来「教えたこと」が「出来るようになる事」がゴールではなく、「教わった側」が将来「教えられる側」になる所まで成長出来ることを求めて(期待し)、双方に関わりを深め成長していく。その長く見えるようで短いレールのなかで、常に双方が前進していける姿が、長く働き続ける糧となり、その仲間達が目の前の高齢者の生きる姿を、より私たちの生活に近づけていける術を進化させてくれるのだと。つまり、質を高めていくには、技術を覚えることではなく、共に「育て・育み合える」環境を築くこと。私達の施設では、まずこれらを第一に考えています。

  施設長 八幡