今年新卒で入社した職員は、平成3年生まれ(大卒)から平成7年生まれ(高卒)・・・。
昭和の半ば生まれの私は、この新卒達の親より10歳以上年上になる・・・。
私たちの目の前にいる高齢者は大正~昭和初期生まれの80代・・・。
この若者たちが、70年も前に生まれた高齢者を支援・介護していくということには、時にジェネレーションギャップを感じさせることも起きることがある。
(シーン1)入居者が熱をだした。
平成生まれの介護職員→水枕の指示を出されたが、水枕の作り方が分からなかった。それは、先輩職員が手取り足とり教えるけれど、使い終わった氷枕を片づけてくれたと思いきや、翌日、冷凍庫の中からカチコチに凍った水枕が出てきてびっくり!
確かに、平成生まれは「アイスノン」という冷凍庫で凍らせて使う物しか知らないのである。
(シーン2) ショートステイの利用者が、「雨が降ってきたけど、「こうもり」を忘れて来ちゃったよ」
平成生まれの介護職員→「○○さん、コウモリ飼っているんですか?」
「こうもり」と「コウモリ」・・・傘なんですけど・・・(笑)
(シーン3)介護記録にまつわる話
介護職員はケア状況を記録に残すことが求められるが、その記録を読んでいると時に誤字を発見した。
「AM2:00ラウンドすると良く眠られているが発汁+更衣交換す」
→発汁はもしかして発汗の間違い?!(笑)
現代では、パソコンやメールの文化となって圧倒的に「字」を書くことが少なくなったことによるものかも知れません。
私と新卒職員、30年~40年の違いで、これだけ習慣や暮らしに違いが出ているということは、高齢者からしてみたら30年以上の年の差がある私自身の行動にも、おかしな事が起こり得ているかも知れない。
人の振り見て、我がふり直せ!何はともあれ、仕事は楽しく笑顔でがモットーのなごみの郷です(^^♪
橋本 かおり
日頃当たり前に交わされていた入居者Aさんとの挨拶の言葉に疑問を感じた。
以前までは(いつ頃までだったかさだかではないが…)、「おはようございます」と交わしていた挨拶が、いつの間にか「グッドモーニング」にかわっていたからだ。
これは、職員から発されるようになったのではなく、知らず知らずの間に入居者Aさんから発されるようになっていたのですが、「知らず知らずの間」というのは、僕達の仕事に対する怠慢かも知れない。だって「おはようございます」から「グッドモーニング」というのは、誰がどう聞いても明らかな入居者Aさんの変化であるのに、いつからかなのかは僕自身、不明確な認識であったからだ。
よく新人職員が入社したときには「おはようございます」だった挨拶が、半年くらい経つと「おはよう」となっていることがある。このとき、「どうして?」と尋ねると多くは、「関係性が築けてきたので」と言うが、一体誰が、何をもって「関係性を築けた」かを確認すると、自分の主観でその関係性に根拠はないことがある。つまり、入居者が「あんたとは関係性が築けたから挨拶は「おはよう」にしよう」と言われた訳では無いということである。
また介護保険法の「尊厳の保持」と標された文言を追求していくと、僕達から発される「おはよう」はいかがなものだろうかとも思う。例えば学生時代にお世話になった恩師と、卒業後の交流を通じて関係性が深まったとしても、僕らはその恩師への挨拶に「おはよう」とは言わないのに、高齢者への「おはよう」は…。
そんなことを考えながらも、このAさんの言動について色々考え、調べてみると、どの職員に対しても「グッドモーニング」ではなく、他フロアの職員など馴染みの薄い職員の方には今でも「おはようございます」であることがわかった。
特にAさんに特別なことをしてきた訳ではないが、毎日顔を合わせて、挨拶を交わし、天気のことやら何気ない会話の中でAさん自身がそんな当たり前のささやかな日常から、日々接する職員との関わりに「グッドモーニング」という言葉を用いて、より良い関係を構築しようとしているのかも知れないと感じるようにもなった。そうした時間は僕達にとっては、特別なこととして捉えていなかった事も、入居者にとっては大切な大切な一場面であり、それを感じているからこそ馴染み深い職員へは「グッドモーニング」と明るく関わりを創り出してくれているのかも知れない。
僕達からみたときのごく当たり前の関わりは、そんな一場面をどこまで重要視しして関わってきただろうか。入居者Aさんの「グッドモーニング」の挨拶に、僕達はどう応じていくべきかは、未だ葛藤中ではあるが、専門職としてそんな些細な日常や、些細な言葉を追求していきたい。
本来、僕達が入居者の方々に元気を提供しなくてはならないのですが、毎朝この入居者Aさんの「グッドモーニング」の挨拶に、元気を頂いていることに感謝します。ありがとう御座います。
村上 晃史
今年度は「基本」に立ち返るという施設全体の目標のもとデイサービスでも色々と自分達の仕事について考えてみました。
利用者の尊厳っていうけど、一体なにを、どう応じている事が「尊厳」なのだろうか?入浴の場面での尊厳は?排泄の場面での尊厳は?
自立支援という名のもとに、自分で出来ることを押しつけていないだろうか?
なぜ、いま自分がフロアのその位置にいるのか?と尋ねられたら、そこに意味をもってこたえられるだろうか?
認知症だからというだけで、本人の意思に関係なく対等の関係で会話をしていないだろうか?
利用者が困っている事ではなく、自分達が困ることをカンファレンスの題材にしていないだろうか?
食事介助、車椅子介助、歩行介助、基本に振り返った時、どうだろうか?
そんなことを1つずつ今年度は振り返り、無意識に薄まっていることを取り戻していくのですが、そんな中デイサービスでの記録の在り方について疑問が出て来た。
基本的に記録は事実をもとに記載がされていくはずなのに、介護日誌には、「楽しそうにしていた」という介護者の主観が記入されていることがあり、私も記録した覚えがある。楽しかったか、そうでなかったかは本人にしか解らないこと。本人が「楽しかったと話していた」ならわかるが、「楽しそうにしていた」は介護者の日記に過ぎず、記録には不要なことだと思う。
記録は利用者の日々の様子や普段と変わった状況が「いつからどんな状態であったのか」といった事実が重要な情報となるものであり、それは求められているから記録をするのではなく、「何よりも自分達の仕事として必要な情報となるから記録に残しているのでは」と考えるようになった。
そんな追求をしていたら、新人職員さんが「なぜ記録が必要なのか初めてわかりました」と話してくれた。実は新人・ベテランに関係なく、意外にも「どうして記録が必要なのか?」って考えてみる機会がなかったように思う。
また記録の必要性を追求してみたら、利用者を観る視点が自分自身でも変わった気がする。それは、記録を求められているからではなく、小さな変化を見落とさず、記録に残していくことの蓄積と、その記録を活かせる状態にすることが一歩先行く利用者への応じる手立てとなると思えるから。
そんな専門職としての力も今年度は伸ばしていきたい!
佐藤 麻理子
100歳を超えるOさんは現在「看取り介護」を継続中です。看取り介護を開始してから4カ月が経とうとしていますが、現在は食事も良く食べ、自分の意思もハッキリ伝えられ、元気に話す姿を見ていると、看取り介護中であること、100歳を超える年齢であることを忘れそうになることもあります。
そんな最中、「入院中のSさんが今朝亡くなりました」と訃報を聞き、驚きとともに、その事を職員に伝えると、皆一様にショックと哀しみを感じてました。それは入院前のSさんの元気な姿があったからでもあると思う。
看取り介護には、終末期の介護について、「尊厳に十分配慮しながら、その人らしく生活できるように日々の暮らしを営めるようにケアを行う」ということが、ある程度明確になっており、より意識的にそれが取り組まれる。
しかしケアに関する考え方は、看取りの方であろうと、そうでない方でも同じ環境下にあり、今回のように、いつ亡くなるとも分からない点では、全ての方に対して、より意識的な対応を図るべきであり、終末期と呼ばれる時期であると認識する方が自然なのかもしれない。
看取り介護は、入居者・家族にとって大切な選択肢の一つであることは間違いなく、それを提供できるように挑む施設と職員を誇りに思う。そしてそこには携わる全ての方の協力がなくては出来ないことという意味では特別なことではあるけれども、その一方でも、施設で暮らす全ての高齢者のケアも同様に意識していかなくてはいけない。
そんな当たり前のことを、Sさんのお通夜に参列した帰りに考えさせられ、施設の中にいる事で薄れてしまっている「普通」の感覚の大切さをみんなと考えていきたい。
閏間 順哉
施設の庭に生えてきた筍
今日、2Fにあるデイサービスの高齢者が職員と共に1F事務所の電話を借りにきました。高齢者は少し険しい表情にも見え、また困っているようにも見えた。
職員は電話の使い方を説明し、本人は受話器をとり自宅にダイヤルを回し、電話が繋がる。
その話の内容から、本人が電話をしていた理由がわかった。どうやら戸棚にしまっておいたお菓子を忘れたことを伝えたかったようだ。用件を伝えると本人は安心したようで「はぁ~良かったわぁ」と表情が和らぎ電話をおき、2Fのデイサービスに戻っていった。
なんてことない風景にも見えるが、本人が不安に思っている忘れごとを職員が真摯に受け止め応じている姿が何だか嬉しかった。
今、家には誰もいないから。電話が壊れているから。こちらで伝えておくので。といったように、本人の不安に共感を見せかけて、ごまかそうとするのではなく、本人が不安と思う事に同じ目線で物事を考えて上げられるからこそ、出来た考動だと思う。
もちろん、家族の事情などにより、必ずしも電話を繋げたことが手立てとして正しいかどうかは解らない。他にも専門職だからこそ応じられる事があるかも知れない。しかし、そんな追求をしていく大前提には、「自分達が困らぬように」ではなく、「本人の困っている事に支えとなりたい」という姿が大切なんでしょうね。
施設長 八幡 雅冬
