今年度は「基本」に立ち返るという施設全体の目標のもとデイサービスでも色々と自分達の仕事について考えてみました。
利用者の尊厳っていうけど、一体なにを、どう応じている事が「尊厳」なのだろうか?入浴の場面での尊厳は?排泄の場面での尊厳は?
自立支援という名のもとに、自分で出来ることを押しつけていないだろうか?
なぜ、いま自分がフロアのその位置にいるのか?と尋ねられたら、そこに意味をもってこたえられるだろうか?
認知症だからというだけで、本人の意思に関係なく対等の関係で会話をしていないだろうか?
利用者が困っている事ではなく、自分達が困ることをカンファレンスの題材にしていないだろうか?
食事介助、車椅子介助、歩行介助、基本に振り返った時、どうだろうか?
そんなことを1つずつ今年度は振り返り、無意識に薄まっていることを取り戻していくのですが、そんな中デイサービスでの記録の在り方について疑問が出て来た。
基本的に記録は事実をもとに記載がされていくはずなのに、介護日誌には、「楽しそうにしていた」という介護者の主観が記入されていることがあり、私も記録した覚えがある。楽しかったか、そうでなかったかは本人にしか解らないこと。本人が「楽しかったと話していた」ならわかるが、「楽しそうにしていた」は介護者の日記に過ぎず、記録には不要なことだと思う。
記録は利用者の日々の様子や普段と変わった状況が「いつからどんな状態であったのか」といった事実が重要な情報となるものであり、それは求められているから記録をするのではなく、「何よりも自分達の仕事として必要な情報となるから記録に残しているのでは」と考えるようになった。
そんな追求をしていたら、新人職員さんが「なぜ記録が必要なのか初めてわかりました」と話してくれた。実は新人・ベテランに関係なく、意外にも「どうして記録が必要なのか?」って考えてみる機会がなかったように思う。
また記録の必要性を追求してみたら、利用者を観る視点が自分自身でも変わった気がする。それは、記録を求められているからではなく、小さな変化を見落とさず、記録に残していくことの蓄積と、その記録を活かせる状態にすることが一歩先行く利用者への応じる手立てとなると思えるから。
そんな専門職としての力も今年度は伸ばしていきたい!
佐藤 麻理子